北の大地で研修中 ニポラー日記
家庭医・総合医をめざして北海道の各地でニポラー(ニポポ研修医ニポポ研修OB)が活躍中です。 そのニポラー(研修医とOB医師)と指導医の日記です。楽しんでお読みください 。
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2010
07,19
11:00
撤退
CATEGORY[未選択]
家族、とつぶやいてみるとなんとなくつながっている気持ちになる。しかしこの仕事をしていると様々な人間、しかも生身のうそのない姿が見えてくるときがあってそれが辛くなることもある。家族はひとつの理想のもとつながりあっているわけではない。当たり前だが、いろいろあるのである。
大村さんは威厳に満ちたじいちゃんである。
80
を超しているが元・校長先生というだけあって理知的な印象である。しかし、であるが上に病棟のスタッフからは「素直でない」と少し疎まれていることも事実であった。
大村さんは学校を辞した後、ちいさなタバコ屋を開いた。昔からタバコだけが趣味で生きてきて、小さな街に趣味が高じて店を開き、結構繁盛したらしい。しかし年々呼吸が悪くなり動けなくなった。大村さんは夫婦
2
人暮らしで息子は東京に娘も道内ではあるが遠方に暮らしそうそう手伝いも、会いに来ることすらままならない。小さな店はひっそりと閉じられた。
病院にはしばしば入退院を繰り返すようになった。在宅酸素の導入も検討されたが在宅で看るものがなく酸素を使用すれば火の元も危ない、との理由で見送られた。息子と娘は肝要なインフォームドコンセント(説明)には姿を見せたが老いた父を見る気はなく、病院にできるだけ長く預かってくれ、公立病院なんだからそれが責任では、を繰り返した。大村さんの妻はそんな皆の姿を何を言うでもなく眺めていた。
やがて大村さんの妻は認知症の症状が強く現れるようになった。出された薬を飲み忘れる、約束した日取りを失念する、そんな症状が多く出るようになった。しかしそのことに一番早く気づいたのは病院のスタッフで、息子と娘は全く気づかず相変わらず介護のすべてを母にまかせていた。
妻は大村さんを看ることに疲れた。妻の口からも
「私は疲れた、何とかして病院に夫を預かってほしい。」
と言うようになり、そして大村さんは何度目かの入院をした。
大村さんは比較的、元気であった。一度、肺炎を起こしたが概ね、順調に過ごした。リハビリも行い、病棟では笑顔であった。痩せて呼吸もしづらかったが、酸素を導入すると倦怠感もとれまたもとの大村さんに戻った。
結局、大村さんはそのまま療養型病床を探すことになった。いつまでも入院しているわけにはいかないので、なんとか在宅酸素を導入し、介護保険の要介護度を上げ、身体障害者申請をし、受けられるサービスの幅をひろげ一時的に退院した。今はどこの療養型病床も満床である。何ヶ所か当たっているが、そのどこかが空床となるいつかまで今はひっそりと二人で自宅で過ごしている。
誰が悪いというのではない。息子は東京に基盤ができ、それぞれが一生懸命生きていることだろう。娘もまた然り。それだからこそ様々な人がそれなりに幸せに生きて欲しい。
家族にもいろいろなかたちがあり、人生にもいろいろなかたちがあるのだ。多少いびつでもみんなが一生懸命生きていればそれでいい。
[3回]
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2010
07,14
12:46
日々の診療
CATEGORY[未選択]
今まで大きな病気をしたことがない69
歳の女性が悪寒戦慄を主訴に内科を受診した。
話を聞けば、何週か前より頻尿になり、受診前日にはぶるぶる震えるような、そして夏なのに分厚い布団をかけないと過ごせないくらいの寒さを感じるようになった。倦怠感で食事もとれず、これはまずいと思い、病院嫌いではあったが、家族の勧めもあり受診した。
バイタルは体温が高いほかは問題なし。ショックにはなっていない。血管を絞める必要はなさそうだ。しかし確かに
sick
な様子で敗血症などは鑑別に挙げたほうがよさそうだった。診察では左の
CVA
叩打痛が陽性。尿路感染、腎盂腎炎などが強く考えられた。
点滴ルートを確保し、血液検査や検尿、培養検査を提出。培養検査は血液培養
2
セットと尿培養。手順通り。そして迅速に腹部エコー検査を行い、尿路に閉塞がないことを確認。これも手順通り。考えられる限り教科書通りに臨床推論をすすめる。
検査が返ってくる。白血球
17000
、
CRP18.0
。白血球は感染を示唆する左方移動を示している。検尿ではタンパクとともに潜血反応、細菌が検出される。よしよし。推定通り。尿路感染症で矛盾しない。
このあたりで家族に途中経過を説明する。尿路感染の可能性が高いこと、現在はその程度やどんな菌がいるのか調べていること。食事も摂れずたいへんだと思うので入院が必要なこと。家族はふんふんと聞いている。
次に尿のグラム染色(どんな細菌が原因菌か尿を染色して調べること)を行う。陰性桿菌多数。ところどころ
貪
食像も見られる。いずれも代表的な尿路感染症の起因菌は陰性桿菌の大腸菌であるし、今までの所見に矛盾しない結果。これで診断確定だ。大腸菌による尿路感染症だろう。
ここまで来て患者の状態を見ながら輸液と抗生剤を決める。食べれていないな。尿にはケトンも出ていた。糖を加えたほうがいいかな。抗生剤はどうだろう。まさか
ESBL
産生菌ではないだろう。エンテロの可能性は少ないからユナシンは得策ではないだろう。しかしいきなり狭い範囲の抗生剤もいけないだろうか。ロセフィンあたりがよいだろう。よし、そうしよう。
結構、緻密に考えてひとりで満足する。これでよし。あとは
3
日後に検査をフォローして終了だ。今までのことをひととおり患者、家族に説明する。よくわかりました、そうですか…よろしくお願いします、と言われる。これでよし。自己満足して帰宅する。
そして
3
日後。患者は完全に軽快した。解熱し元気でもりもり食事を摂っている。そしてこう言う。
「あの、ところで私って食当たりか何かだったんでしょうか。」
いいんです。それでいいんです。私、誰かに褒められたくてやってるわけじゃないですから。ちょっとがっくりくるけど。
[2回]
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2010
07,12
19:29
池澤夏樹講演会
CATEGORY[未選択]
7
月
10
日に札幌の近代美術館で開催された池澤夏樹講演会「博物館の中と外」に参加した。何かと忙しい毎日だが、こんな講演会に出てリフレッシュできるのはとても嬉しい。僕は以前より池澤文学のファンで池澤さんの作品を中学生くらいの時からいろいろと読んでいる。だから実際に著者に会えるということは感激であった。
実際の池澤さんは想像よりおじいさん、といった感じだった。世界中の話が本に書いてあるのでもっとたくましい人かと思っていたのだ。しかし知の巨人といった感じ。後ろの座席の人が連れの人と話していたのが聞こえたが「こういう人こそ本当の博学というのだ」という印象。まさに。
話としては同地で開催中のローマ展より話を始め、大英博物館のカリアティド、エルギンマーブルの話を経てイラクの収奪の話、宮本常一からアチックミューゼアムに至りパリ、ペルー、ゴーギャンに移るという
90
分の世界旅行。著者の「パレオマニア」の話が多かっただろうか。日本の博物館にも触れられとても興味深かった。知的興奮に満ちた講演でこんなに終わってほしくない、と思わせられる講演もなかった。
ここで強調されたこととして博物館は世界の生き方に対する興味を表現していること。そして見る者は対象に対する尊敬を持ち、それがどこに由来するのか自覚することの重要性であった。博物館は池澤さんもおっしゃていたが「世界の生き方のカタログ」なのであろうと思う。コンパクトに生の世界に触れることが出来るテーマパークのようなところ。大事なのは本物であるということか。
北海道でも例えば今でこそアイヌ文化は共生の文化として脚光を浴びているが、ほんの少し前はどうであったか。他者に対する共感はあったか。学術の対象として「標本」を博物館に展示する以外にメッセージを伝える機会があっただろうか。
近年は一方的であった展示の方法も徐々に変化があるという。アイヌの遺跡から発掘された遺骨を返還しようとする動きがあるのもその一環であろう。よいことだと思う。
講演から池澤さんの文化や好奇心や対象に対する愛が感じられた。このような機会を用意してくれた博物館協会に敬意を表したいし、また大勢の人が人間への興味を持って博物館を訪れるようになってほしいと思う。池澤さんはイトウの成長を楽しみに野付岬ネイチャーセンターに通っているそうだ。そんな楽しみ方もあるのかと驚いた。
ところでひとつ池澤さんに聞き忘れたことがある。博物館と言えば楽しいのはミュージアムショップだ。中をぶらぶら見学するのも楽しいが、ミュージアムショップでわけのわからないものが売られているのを見るのも楽しい。世界中の博物館を見た人はどんなお土産物を見たことがあるのだろう。聞けばよかった。
[2回]
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2010
07,09
13:02
看取りの光景
CATEGORY[未選択]
在宅看とりをするために夕方にそのお宅を訪れた。いい天気。夏至間際でまだ高い位置におひさまがあって夕方にもかかわらず少し蒸し暑い。訪問診療の車を降りると、タイミング良くチーンとリンの音が聞こえたので、思わずぷっと噴き出してしまった。まだ早いんじゃないか。
中に入ると、座れないくらいに人が居る。今来た中には泣いている人もいるが、おおむねは冷静で中には笑っている人もいる。子供はなんのことかわからずはしゃいで走りまわっている。窓はあけられて涼しい風が通る。
その中におばあちゃんが寝ている。よく眠っているように見える。よく頑張ったね、と声をかける。そして死の三徴候を確認し、看取りを行う。家族にありがとうございました、と頭を下げられるが、実は私は何もしていない。
慣れ親しんだ訪問看護師は家族に清拭や書類の受け渡しなどこのあとにやるべき一連の所作にについててきぱきと指示を与えている。私は死亡診断書を作成し事務に届けることで在宅看とりが終了する。
I
さんは
88
歳の女性。約
1
年前に癌が見つかった。高齢でもあり割と進行していて手術しないという選択が消化器専門医とともに選択され経過観察となった。その後、食事が摂れなくなってバイパス手術を受けた。当科に紹介されたのはそのころである。すなわち在宅療養の希望が強いので訪問診療で経過を見てほしいという依頼だった。
実は初回の訪問診療を行う前に、
I
さんは入院してしまった。度重なる吐き気で食事がまったく摂れなくなり点滴せざるを得なくなったのである。
「もう帰れないですかねえ。」
娘たちはそう言い、病棟の誰もがこのままかもしれない…と漠然と思った。
しかし
I
さんは帰宅を望んだ。毎日の回診で
「調子はどうですか。」
と言うと
「元気になりました。本当にありがとうございました。」
と言う。
「食べられていますか。」
と聞けば
「はい、大丈夫です。半分以上は食べられています。」
と言う。実は一口で終了していても。
あまりに涙ぐましく帰宅を言い、家で暮らすことに気持ちを募らせるので、娘二人を招いて少し話を聞いたのが入院して
10
日ほど経ってからだった。
「おばあちゃんならねえ、そう言うねえ。」
「昔から頑固で人の言うことなんか聞かないから。」
口々に
I
さんの悪口を言いながら少し涙した。結局、在宅に戻る、戻って何が起こるかは分からない、しかし訪問看護、訪問診療を使って在宅の点滴など出来る限りのことはすると約束し退院することになった。
退院が決まってからの
I
さんはとたんに朗らかになった。表情も蒼白だけれど少し笑うようになった。そして娘さんに連れられて車いすで帰っていった。
その後まもなく何も口を通らなくなった。
I
さんは体の不調を訴え
「こわい、こわい」
と繰り返すようになった。強い印象のあった
I
さんに弱さが見え始めた。
しかし娘たちは結束した。いつも傍らに誰かが付き添い、
I
さんの身の回りの世話をした。内服もすでに出来ず、貼り薬の麻薬の量も少し増えたが動じなかった。
「おばあちゃんがね、いいようにしてあげたいんです。本人の意向を尊重するのがいいでしょう。」
と言い、どんどんしっかりしていった。
そしてこの頃より家の中が明るくなった。いつも誰かが来る。孫もひ孫を連れて来て、子供はそのへんを走り回っている。男たちはビールや酒を持ち込み、当人たちにその気があったかどうかはしらないが毎夜の宴会となった。
賑やかなことが好きな
I
さんは徐々に言葉も出なくなったが、しぐさで楽しんでいることを伝えた。麻薬でこわさは取れ、少しの点滴で持ちこたえていた。皆が来ることが楽しかったらしい。数年会っていなかった都会の息子も来た。
家に帰った
I
さんは病院よりはるかにいい時間を過ごしたと思う。血圧は測定されないし心電図モニターもついていない。急に何かが起こるかもしれない。でも家の中には忙しく働く人はいない。気ぜわしい気分にもならない。いい風が吹いて気持ちいい。過ごしやすい家の空気を吸って
I
さんは過ごせた。
いよいよ…となったときは家の中は人で溢れた。亡くなった時、一番
I
さんに関わった娘たちは泣かなかった。むしろ笑顔で
「ありがとうございました」
とおっしゃった。
I
さんは幸せだ。家族や大事に思ってくれるいろんな人が周囲にいて、みんなが
I
さんの死を受け入れて、
I
さん自身の生き方を認めてくれたからだ。在宅看とりはずっとその人を看る家族が必要なので、在宅へ誘導しようとする国の施策通り増加するかどうかはわからない。しかし、こんな素敵な死を見ると、素朴に家で死ぬこと、の意味を考えてしまう。
在宅看とりを終えて家の外に出ると、大きなケースに入った瓶ビールが運ばれてきた。これでいいのだ、と思った。
[6回]
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2010
06,28
19:36
プライマリケア連合学会
CATEGORY[未選択]
学会出張した。
夏の東京である。全身倦怠極まれり。湿気があってまとわりつくように暑いし、宿泊したのが銀座だったから、どこを歩いても人がたくさん居て疲れた。しかし同じ時に北海道の足寄では
37
度あったそうだからどこも同じかもしれない。
医者は「学会」と称する同好の士の集まりによく参加する。ふだんでは入手しにくいような勉強をする絶好の機会でもあるし、最近のトレンドを知るよい機会でもある。また特にふだん、我々の業界のように何をしているかよくわからない、といった白い目で見られている小さな集団にとっては、全国から集うことでお互いの傷をなめ合う感傷的な場でもある。
今回はプライマリケア連合学会という学会に参加して発表も2演題、あとはいろんなシンポジウムや講演に参加して質問をたくさんしてきた。全国の先生方と話をするのは楽しい。ある種のお祭り的な雰囲気に呑まれて、自分の気分が高揚していろんな発想が出てくる、それが楽しい。
今回は初めての連合学会ということで不手際も多かった。ワークショップは入れないし、荷物は置けないし、休憩する場所もないし。それでも様々な先生と話せてよかった。こういう機会を日々の臨床の原動力に生かしたい。
さあ、また日常が始まるなあ。
[1回]
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2010
06,22
12:40
幸せってなんだっけ?
CATEGORY[未選択]
人生何を持って幸せとするか個々人の価値観があって難しい。しかし、どこをどうとっても幸せそうな人に遭遇すると、こちらとしては逆に些細なことに目をとらわれる日常が恥ずかしく感じられる。そんな毎日。
T
さんは
78
歳。
60
くらいまで季節労働など雑多に仕事をしていた。その日暮らしの気安さ…というべきか、結婚もせず定職もつかず、社会的なことは弟夫婦にまかせ独り暮らしを満喫?していた。
酒もたばこもやり放題。おそらくはいろいろと遊んだのであろう。現在は生活保護を受けながら不定期に肺気腫で通院していた。もちろん禁煙なんて考えない。脳梗塞を経験しているので体が完全に自由というわけではないが、自転車できままにふらふらする
T
さんが昨年秋までよく目撃されていた(冬は冬眠)。
そんな
T
さんが肺気腫の急性増悪で入院した。入院時は酸素飽和度
70
%。何度か死線を越えてやっと安定した時は入院時より体重は
3
キロも減っていた。
さて帰る場所はどうしましょう、在宅酸素はどうだろう、そもそも今後のフォローどうするのか、ソーシャルワーカーさんや訪問看護や多職種の人を巻き込んでひと騒動となった。なんだか私もいろいろと書類を作成したり、人を呼んでケアカンファレンスしたりたいへんなことだった。
しかし当の本人はどこ吹く風。
「俺は俺でやるからいいんだ。」
と。本人はにこにこしている。まあ、そうかもしれない、と思いながら放っておくこともできない。いろいろと話を聞いたりするうちに状況が分かってきた。
T
さんは普段からデイ・サービスには通っていたらしい。すなわち介護保険の要支援は取得していた。そのデイが気に入っていたかというと
「あそこは昼飯代をとるんだ。」
とお気に召さない様子。生活保護と年金で併せて
10
万円ほどの月収があるが、
1
回
700
円の昼+夕食代が高いと思うらしい。でも、ふだんの食事どうしてるの、と尋ねれば
「親切な友達が分けてくれるんだ。」
と。なんでもその「親切な友達」は米
5
キロを
5000
円で、サランラップ
1
個は
500
円で分けてくれるような方らしい。それは高価な生活必需品で…と関心した。
なんだかいろいろなことがちぐはぐなのだが、兎にも角にもサービスを、ということで介護保険を申請しなおし、サービスを導入しながら、施設を探すということで落ち着いた。医療に関しては訪問診療で見ていきましょう、と。良いことなのか悪いことなのか日本の医療はお節介だからいろいろと成り立ってしまう。
訪問してまたびっくり。足の踏み場もない。4畳半にベッドひとつ。生活に必要そうなものが散らかっている。男やもめに…
それでもなんとか生活していそうで安心した。釜にはご飯が入っていたし、ヘルパーさんの作ったみそ汁を飲んだ形跡があった。これから夏だからまたスーパーに行きたいと言っていた。生きていることを確認する作業を行ってきた。
幸せだ、と
T
さんは言う。そうか、幸せか、と私は思う。いろいろあるけれど
T
さんが自分の人生を受け入れて、自分の境界を守りながらその範囲内で楽しんでいるならそれでいいと思うし、そんな
T
さんを少し羨ましくも思う。競争とか名誉とかいろんなものから離れて自分自身の人生を歩める人がどれだけいるだろう。
ところで
T
さんよ、せめてたばこやめないか。医者の前くらい…
[4回]
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TB[]
2010
06,20
08:10
資格が難題!
CATEGORY[未選択]
毎日なんだか忙しい。日々の雑務に追われていろいろなことを振り返らず過ごしているような気がする。気がつけば夕方…なんて日もあって寂しい気分すら感じている。
家庭医療専門医という資格があって、今はそのためのポートフォリオ(レポートのようなもんだ)を一生懸命作っている。振り返りのための生涯学習ツールという触れ込みで、そのための形式も学会が用意してたいへんな入れ込みようである。
この業界はまだまだ歴史が浅くて、各団体、個人が己の地位を確固たるものにしようと努力している真っ最中である。似たような学会が合併したり、英文雑誌を作ったり。専門医はその対外的なアピールも含めたキャンペーンの一環で、まだ次会が2回目という新しい資格である。
受験する者の正直な感想。一部、この資格を熱望する方以外は冷めた目を持っているでしょう。正直、取得したところで何に役に立つか不明。結局、なに?と問われて答えに窮する資格ってどうなんでしょう。試験も応募時期ぎりぎりまで試験会場が決まらなかったり右往左往しているのってどうなんでしょう。将来的に何かの役に立つかもしれないという可能性にかけて、また今受験すればポートフォリオの数が少なくて済むという利点で受験しようとは思いますが、いまひとつ心踊らない資格ではある。
そもそも内省的であろうがなかろうが、患者のために尽くすという一点では各種専門家でさえ家庭医的なのではなかろうかと思う。そのマインドってポートフォリオで測れるのか?やってきたことの証としてはそれでいいが、それなら内科認定医が先じゃないか、と思う。
不確定な中に不確定なものを持ちこむからややこしくなる。歴史を重ねればこれって超えられるものなのだろうか。
専門医がこれから○○をしたいと思っています、という決意表明としてなら理解できる。しかしそれなら試験は不要だ。プログラム修了者すべてにばらまけばいい。
家庭医がなんだ、僕は病院で毎日、患者さんと向き合ってるんだぞ。頭でっかちじゃいかんのだぞ、とひそかに思う。
毎日、忙しいのにポートフォリオに振り回されているのでちょっと書いてみた。連合学会の偉い方々、読まないでね。
[4回]
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TB[]
2010
06,19
13:44
大往生
CATEGORY[未選択]
大往生とはいかなる死に方か、と考えたりする。よく新聞などに
「いやあ、ずっと元気だったんですがある日、寝込んだかと思うと数日してぽっくり逝ったんですよね、ほんとに大往生でした。」
などという話が掲載されていたりする。誰しもが確かにこういう死を望むのであろう。他人の迷惑になりたくないとか苦しみたくないとかいろいろな思いの中で生きる死ぬは常に揺らいでいる。
T
さんは
95
歳だった。幼少の頃から活発で周囲は気を揉んでばかりいたらしい。特に他の兄弟が亡くなって身内が妹とふたりになってからは我侭放題に過ごす姉の心配ばかりを妹がしていたようだ。ちなみに結婚もその奔放な生活からうまくいかず、息子たちは手を焼いて妹にまかせていたらしい。
しかし元気な生活も数年前に総胆管結石による胆管炎を起こしてから一変した。肝臓で胆汁という消化液が作られているが、その通り道である胆管が石で詰まり感染を起こしたのである。それまでは
T
さんが好きなように生活し(基本的にはひとり暮らし)、それに周囲があわせるようにしていたが、ある日感じ、あれよあれよという間に入院。それから食べることが何より好きな
T
さんにはもっとも過酷な絶食・点滴生活となった。通常、胆石などの結石を基礎にした胆管炎の場合は石をとる処置が行われるが、
T
さんの場合はどうしてもうまくいかず、また高齢でもあり絶食と点滴による治療が行われたのである。
「食べたいよお、食べて死んでもいいからおつゆか秋刀魚か、何かないの?あんた、持ってきて~」
と毎日のように誰彼となく語りかけた。幸い、絶食と点滴という保存的な治療でこのときはよくなったが根本的に石をとったわけではない。だからその後も再発を繰り返した。食べては悪くなり、入院して点滴し、そして食べて帰ってくる。その繰り返し。手は掛かるが憎めない性格というか、スタッフからもまたぁ・・・といった対応ではあったが、家族の心境はどうだったろう。たまに来る息子さんはいいかげんにしろよ、ばあさん・・・といった苦笑の表情を浮かべることもあった。
このように入退院を繰り返すにいたって元気だった
T
さんの体力も徐々に失われていった。はじめて姉が妹の意見を聞かなくてはならない状態になった。妹は姉を心配しいろいろな手配に奔走した。もっとも安心な施設を見つけると姉は
「あんたの世話になるなんて私も落ちたもんだね。」
と嫌味を言って入所した。妹は困った姉なんです、という表情をしたが瞳は優しかった。
さてそしてまたしばらく過ぎ何度目かの入院をした。
CT
で見てもいよいよ総胆管は太く胆汁が肝臓に溜まっているのが見える。もうだめだ、と誰もが思ったが
T
さんはよく耐えた。相変わらず
「飯くれえ、しいたけのつゆ~」
と叫んではいたが、体力が落ちないようにと用意したリハビリには従順であったし、途中に感染をきっかけに悪化した心不全も乗り越えた。食べるため、そして帰るための必死の闘いであった。
妹はよく介護した。いつ果てるともしれぬ姉の闘いに付き添った。重症、危篤、そんな説明をする私に涙をみせつつ、
「最後くらい居てやりたいんです。」
と頑張った。自分も
80
代である。介護は容易でないと思うが、姉の個室に寝泊りしていた。
頑張りの甲斐あって食事が食べられるかというところまで来た。最初はおそるおそるどろどろの三分粥、そして徐々に粥食、常食へ。体力は相当、衰えていたが食事を出しても胆管炎は悪化しなかった。
T
さんは非常に満足していた。どんなどろどろの食事にもうまい、うまいと笑顔であった。妹も少し涙ぐみながら一緒にコンビニの弁当などを食べていた。
そして
2
週間ほどたったか、夕飯をすべてたいらげ、妹に買ってこさせたオロナミン
C
をごくりと飲んで、
1
時間ほどで亡くなった。妹が少し席をはずしたときに急に脈が遅くなり、駆けつけたときは亡くなっていた。なんの来るしみもない。まさに大往生であった。
食べるまで治療に耐えた。そして最後まで自分の想いで生きた。妹は最後まで蚊帳の外だったのか、それとも
T
さんにも思うところがあったのか、最後に何を思っていたのか、聞いてみたいと思うがもう叶わない。ある意味、格好いい死に方ではあった。
ご遺体のお見送りは他の人同様少し寂しい雰囲気であった。妹さんはまた涙で
「本当にありがとうございました。」
と言った。
僕はほんの少し、派手好きで冗談もよく言っていた
T
さんなら悲しくならず明るく送ってあげてもいいかな、と思った。
[4回]
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2010
06,18
12:23
医師雑感
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平均的な医師・・・というのもあまり居ないかもしれない。場の設定というか、環境によって働き方を変えるのが医師の特殊な(変な)ところと言える。つまり勤務医、開業医、研究職、行政、衛生・・・とただでさえいろいろあるところに、例えば勤務医なら急性期病院、慢性期病院、各種施設、大学・・・とこれまた細分化されている。最近はフリーランスなる新たな職種も登場し、たいへんだ。
と、ここまで書いて我が労働を振り返ってみる。急性期病院といえば、そうでもあるが慢性期病院と言われればそうでもある「地域」の病院。地道に地域医療を実践している(つもり)。患者さんに満足してもらえる、疾患の治療だけにとどまらず家族や地域を単位とするケアにつなげられないかとそれなりに模索している。なかなか機会には恵まれないが傲慢になってはいけないので、患者さんからもときにどういった医療が望ましいのか聞いてみたいと思う。
ひとつ思うのだが、細切れにならない医療が本当は望ましいのだろうな、と思う。つまり最近は開業医さんと病院が紹介状を持って行き来する病診連携や病院同士でもお互いの得意分野を生かして紹介する病病連携がひとつの医療の主流となっていて、それは確かに医療費を効率的に使うためでもあり、またとても合理的なことではあるけれど、なんだかやっていて割り切れない部分もある。実際、外来で開業医さんに行ってくださいね、と言うと嫌な顔をする患者さんもたくさんいらっしゃる。それはそうだろう、せっかくおなじみになって安心して信頼して病院に通っているのに見放すのか?ということになる。言ってる私も辛いのです。どうぞご理解を、と諸先生の代弁をしたくなる。といって外来に人があふれる大きな病院にすべての患者さんを受け入れることは到底出来なくて困ってしまう。
どの分野の方も同じと思うが、理想とするものに近寄れないもどかしさはたいへんに悩ましい。こと地域であなたとともに、という医療を目指してきたのでそういう気持ちになる。最近は上記のような例に限らず、思うようにいかないことも多い。
しかし自己反省。いつでもどこでも喜んで、という医師にも又、僕はなれない。やはり個人の生活もあるし、やっぱり日々が疲れる。どうしても家に帰れば家の環境に甘んじ、「あなた」が困っていても、私も困ってしまう。かっこいいこと言ってもやはり限界があって、出来ないことは出来ない。自分の中に矛盾を抱えながら医療を行っている。
みんなが疲れずに持続的になんとかなって、かつ周囲にわかりやすく仕事は出来ないものか。そんな都合のいい仕事はないのか・・・。
分かりやすく「あなたを診る」医師になりたいなあ、と思う今日このごろでした。
[4回]
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TB[]
2010
06,05
08:41
薬は何か
CATEGORY[未選択]
こちらはあちこちに空き地があるが、
5
月はどの空き地もたんぽぽで一面黄色に染まった。今はそれが綿帽子となり一面が真っ白に見える。あっという間に変化していく、なんとも忙しい限りだ。
病院は比較的暇です。農繁期だし、なにより当方も季節商売なので感染症の少ない夏はどうしても暇になりがちなのだ。昼休みにこの文章を書いている。
あるときおばあさんが入院してきた。診ればひどい心不全で息もたえだえである。レントゲンでは両側の肺が半分以上なくなるくらいの胸水が溜まっている。ちょっとした風邪などをきっかけにしばしば繰りかえしているらしく施設の方もついてきたが
「今度もこうなっちゃいました、もう手はないんですかね・・・」
と半ば諦め顔だった。意識も朦朧としており当然、会話も出来なかった。施設入所中も認知症がひどく会話もままならなかったそうだが、それにも輪をかけて今回はひどくなっていた。
「もう何があってもおかしくない状態です。急変というものもありえます。」
僕はたんたんと状況について説明してからそう家族へ伝えた。おばあちゃん想いの家族で目にうっすら涙を浮かべながら
「いいんです、ここで死にたいと言ってましたから。苦しまないようにだけしてあげてください」
とおっしゃった。
それから数日は悪戦苦闘だった。田舎なので出来る治療も限られる。都会のように高価な薬をどんどんつぎこみ、検査を毎日するわけにはいかない。あれやこれやよさそうなものを試し、できることをした。患者さんは何度も死線をさまよい点滴だけの生活を耐えた。
それが・・・ある日を境に急に改善のきざしが見え始めた。頻呼吸であえいでいたのが、みるみるうちに酸素がはずれ、心臓にがんがん響いていた雑音が急に消えた。肺の音はばりばりと反響していたのがすっかりみちがえるように静寂を保っている。
「何かあったんですか?」
看護師さんに聞くと
「いやあ、お孫さんが来てからみたいですよ。」
という。そうか、そういえば土日を挟んでからだっけ。やはり私の治療のためではなかったか。聞こえない耳で何か感じ取ったのだろうか。
今ではすっかり良くなって胸水も消えてくえないばあさんになっている。ご飯を食べて歯を磨きたいときなど
「ちょっと姉さん、こっちこっち」
と看護師を呼ぶ。こちらから呼びかけるときは聞こえているはずなのに
「奥さん、奥さん」
と呼ばないと振り向かない。認知症なのでナースステーションに車椅子で連れて行くと
「こんなものしか読むものないのよ」
といいながらピーマンの絵本を読んでいた。家族は苦笑していた。
さてそんな毎日です。
[2回]
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