北の大地で研修中 ニポラー日記
家庭医・総合医をめざして北海道の各地でニポラー(ニポポ研修医ニポポ研修OB)が活躍中です。 そのニポラー(研修医とOB医師)と指導医の日記です。楽しんでお読みください 。
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2011
04,01
15:27
新たなる
CATEGORY[nipo]
そろそろ皆さんこのブログの存在を忘れてきた頃でしょうか?
ニポラーはまだ存在してますよー。
利尻沖で地元の漁師さんがこの前見たって言ってました。
ニポポの特徴というか、1年ごとに病院が変わり北海道に来て3つ目の病院に赴任したところです。段々と田舎の病院に移ろいゆく感じです。北海道の色々な地域を医者として渡り歩くってのはなかなかできない貴重な体験なんでしょうね。ま、どこにいこうと私の生活は全然変わらないんだけどね。
新しい病院ではまたどうなる事でしょうね。ふふふ。楽しみと不安を毎年味わってます。
そうそうニポポにも新しく3人の後期研修医が参加することになりました。
地域で働ける総合医の必要性が語られるなか、実際は少数派もいいところな我々。安定した道のりじゃないし、なんせ少数派だし、変な眼で見られることもある。
そんな損な道を選んでしまった人は間違いなく、いい人かあんま考えてなかった人だと思います。(ちなみに私は後者だ!)
昨年は後輩入らなかったのでよかったよかった。みなさん歓迎です。
さて、ではでは。
日記誰も書かないみたいなので。たまに私が書こうと思います。
慣れてきたら毒吐くけど炎上は勘弁な。
[7回]
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2010
12,27
12:51
どこまで何が出来るか?
CATEGORY[家庭医関連]
寒い。時期も寒いが状況も寒い。今日は
32
歳の誕生日。そして今は病院の中。花のバースデー当直中(
12
月中旬に書いたため・筆者注)。風邪もひいた。寒い…。
ジェネラリストは「あなたの専門医」ということで、種々の健康の諸問題に対応しましょう、ということになっている。これはこれで正しいと思うが、それでは家庭医含めて総合診療医(言い方がいろいろでややこしいな)は何をどこまでカバーすべきか?
もっと話をすすめると社会全体を「健康」にすべきか(いわゆる川の上流論議)。これは政党色の強い病院やいわゆる家庭医で強く言われることかもしれない。ヘルスプロモーションという名のもとに「健康」を布教することは正しい姿か。
よく考えてみよう。すべての人間が健康に細心の注意を払い、摂生してたばこをすわず、酒はほどほどに勤勉に過ごし、休日は家族と団らんする。それは正常な社会か?僕はいろんな人が居て社会だと思う。酒飲みもいるし、無茶する人もいる。それにまた不健康な人が増えているのは不況、失業といった社会の影響が色濃い。ことに北海道は暗いニュースも多い。各地に限界集落ができている。それなのに社会をどこうできると医療者が考えるのはむしろ傲慢と思う。それは政治家の仕事。我々の仕事ではないと思う。
糖尿にならないように気をつけましょう、喫煙はこんな悪いことがあります、
10
代の性教育大事ですね、それくらいは言える。大事だと思う。知らない人に啓発するのは良いと思う。それだって健康セミナーにわざわざ来るのは相当関心があるからで、関心のない人にどれくらいのインパクトがあるかは知らないが。または社会ではなく地域医療を守る循環型のシステムなんかを現場の立場で提言することは意味があると思う。それは我々にしか言えないことだと思うから。しかし、基本的には社会に働きかけてもあまり大きな影響はないかも、と思う。私たちは小さな小さな度量しかないのである。
結論を言うと、我々の仕事は社会を良くする運動をすることではないということ。我々はあそこが痛い、検診でひっかかった、会社を解雇されて通院できない、そういう状態で来た人に対して「うーん」と悩むことだと思う。一朝一夕に解決できることなんてない。抱え込むものが大きければ大きいだけ、個人では持ちこたえられなくなる。我々に対応できるのはせいぜい個人レベルだ。そして個人について悩むことは十分に意義ある仕事だと思う。
家庭医ならぬ勝手言いのニポポでした。
[7回]
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2010
12,24
13:25
お久さです
CATEGORY[日々の出来事]
なかなか更新できずすいません。実は風邪をひいて家で寝ていました。久しぶりに発熱、咳、痰、頭痛でやられました。流行っているようなので皆さんもお気を付けください。
思ったことは、上記の症状はちょっとした風邪、として普通に対応してしまいがちですが、自分がそういう状態になってしまうとなかなか苦しいものであるなあ、ということ。咳で寝られやしないし、食べられないし、食べると下痢するし、たいへんだった。患者体験すると当事者の苦しみが分かる。ふだん何気なく
「風邪ですね」
なんて言ってるが健康な人にとっては大問題であることがよくわかった。単なるウイルスなんて思っていても、「もし肺炎になったらどうしよう」なんて不安になるし。
患者さんに優しくしようと思った次第であります。以上。
[0回]
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2010
12,17
12:57
医介輔さんの思い出
CATEGORY[日々思うこと]
ちょっと前の日本テレビ系列のドラマで「ニセ医者と呼ばれて」という医介輔さんの話が放映されていた。内容はともかく僕は懐かしく見た。医介輔さんに会ったことがあったからだ。
医介輔とは第二次世界大戦後、アメリカ領となった沖縄で医師免許を持たずに医療行為を許された方々をいう。沖縄はもともと医学部もなく、また戦争で多くの医師を失い極度の医師不足におちいったのだ。このため米軍の特例で元衛生兵など医療関係者に特に離島ややんばるなど僻地における医療行為を許したことがきっかけである。
医介輔という制度の是非はさておき戦後の沖縄医療の一翼を担ったことは否定できない。沖縄という視点だけでなく日本の地域医療を一時担ったこの制度は、再び地域医療が崩壊しつつある現代の、良い前例ともなりえるかもしれない。
この制度を知ったのは僕が高校生のときで、父親から聞いた。ちょうど地域医療の小説や単行本をさかんに読んでいた時期で、「よし、大学に入ったら医介輔に会いに行こう」と決意したのである。若かった。残念ながら決意してから
2
年ほど待たされたのだけれども。
で、大学
1
年の夏休み、剣道部の西医体が終わってからすぐに沖縄八重山諸島にある竹富島に渡った。良く揺れるフェリーだったことを昨日のように思いだす。
そのとき
JTA
(旧南西航空)の機内誌でコーラルウェーという雑誌があって、そこに竹富島の親盛長明先生が掲載されていた。戦争で片腕亡くしていたもののとびっきりの笑顔で優しそうな先生。この人に会いに行ったのだ。
予想通り偉人だった。そのときも随分と高齢だったが、元気だった。島の人々は先生、先生と慕っていた。
「先生が居るからさあ、随分助かってるわけよ。」
皆、そう言っていた。
帰りに本当に寄って、県庁も少し取材し、このときのインタビューを小さな冊子にまとめた(実は文芸部でもあった)。自分で言うのもなんだが好評で、全国の方に配ったりした。いい思い出だ。そういえばご当地の琉球大学の学生からも問い合わせがあったような気がする。
久しぶりに探してみるかな、あのときの冊子。今はちょっと疲れているけれど、読み返せば、あのときの新鮮な気持ちがよみがえるかもしれない。
[3回]
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2010
12,14
18:49
専門医
CATEGORY[家庭医関連]
あまり問い合わせもなかったので書いてもいなかったが、まあ、とりあえず家庭医専門医は取得しました。誰も興味ないって?まあ、そう言わずに…
この専門資格が出来るまでに様々な方々がご苦労されたと思う。改めて敬意を表します。ただ…この専門医は永続するのでしょうか??この資格についてまともな議論が今は停止中と聞きますが、それは正常な姿か?
プライマリ・ケアの専門医は「家庭医専門医」でよいのか?その上に病棟専門医が出来るかもしれないとのことだが、誰がそこまでして「病棟専門医」をとるのか?まず方向がまったく違うやないか。これではまるで内科認定医の上に外科専門医を置くような愚行である。
今の「家庭医専門医」の名前を変えてプログラム修了者にばらまいたらどうか。別にプライドなんてないでしょう。学会の認定したプログラムなのだから、それはすでに専門性を帯びた教育そのものではないか。大学出たら学士がもらえるでしょう。同じです。
そもそも今の「家庭医専門医」は理想家の集団が哲学論争の末に編み出した経典の一部にすぎない。純粋だが使えない。ある意味、そのへんの民間療法と変らない。そんなものに意義は見出せないだろう。
そして病棟専門医の愚行はよすべきだ。もっと日本のプライマリ・ケアや地域医療が良くなることを考えて専門医を作るべきである。家庭医的な資格を作るなら内科認定の
2
階部分にするとか工夫はできよう。
とにかく連合学会や専門医制度がわかりやすく市民のためにあることを願いたい。議論しましょう。
[5回]
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2010
12,09
01:40
青森紀行384
CATEGORY[nipo]
宇宙船『ねぶた8号』を降りた我々が目にしたのは 人語を話すナマハゲたちと、それに支配される人間たちであった。そして彼らが禁断の地と呼ぶ場所で我々が発見したものは半分砂に埋もれた三内丸山遺跡であった。
「なんてことだ、ここは青森だったのか!ちくしょう誰が青森をこんなにしちまったんだ!」
私はそう叫び、手にしたリンゴを握りつぶすのだった(完)
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2010
12,07
13:19
青森紀行8
CATEGORY[未選択]
ローカル線で青森駅へ。
2
両しかない普通電車は満席であった。私は立って車窓に流れる景色をぼんやりと眺めていた。稲刈りが終わり、落ち穂が芽を出している。ススキが満開で風に揺れて秋の風情だった。
途中、ガイドブックで見た昭和大物と五重塔が見えた。昭和の建造物だから文化財的な価値はないと思うが、飛鳥を思い起こさせた。
青森駅に着く。コインロッカーに荷物を置き、さあ、今日も散策へ出発だ。
秋なのに少し暑いくらいの陽に照らされながら歩く。もう少し近いかと思っていたが、目的地の県立郷土館は意外に遠い。地図通りに歩く。なんだか雰囲気が怪しい飲み屋街に入っていく。合ってるのかな、と不安になり始めたころに到着した。ひとまずほっとする。
郷土館では特別展が開催されていた。「境界に生きた人々」という展示会。他に誰も見学者がいなかったが、素晴らしかった。
一般に東北に住んでいた民はまつろわぬ民という言葉が有名になったように大和朝廷にたてついた悪党といった風潮が通っている。例えば坂上田村麻呂の前にも「悪路王」が討伐されたりしている。しかしそこに展示された民具や文化遺産は平和な生活を表したものであった。前述の赤坂によれば大同年間に東北各地に大和的な文化流入の痕跡があるという。それはすなわち日本民族の侵略であろう。それに抵抗することは「まつろわぬ」ということなのだろうか。そののちの仏教文化の流入を見ても、なにか物悲しい感じにうたれてしまった。安倍、清原、奥州三代へと連なる栄華と滅びが東北を生きた縄文の衰退に思えて悲しかった。
人魚供養札というのがあった。間違えて人魚を釣ってしまった絵画まであった。その札には
あな かわいそう 殺してしまえ そわ可(訳)
と書かれていた。どういう解釈をすればいいのだろう。
常設展示も素晴らしい。亀ヶ岡で有名な遮光式土器(ドラえもんの「日本誕生」という映画で飛び回っていたヤツ)もあった。三内丸山の説明を聞いていたのでたいへんよくわかる。楽しい。実際に出土した土器を触ってみることが出来るコーナーもあって、その重さにびっくりした。意外に重くて丈夫なものだ。
黒曜石の分布図に感動。東北一円の黒曜石の産出地は赤井川、十勝だという。アイヌは縄文民族の末裔と考えると、こんなにも行動範囲が広かったか、なるほど津軽海峡は「しょっぱい河(アイヌ語訳)」であって移動を妨げるものではなかったのだなあと思った。
三内丸山の板状土偶や縄文ポシェットも展示されていた。
ここの展示はそれだけにとどまらない。自然コーナーでは熊やカモシカ、隕石まで展示されていた。
歴史コーナーで印象に残ったのはアイヌ衣服が東北の人々の防寒着、仕事着であったこと、そしてアイヌの住む村があったこと。ある海沿いの村ではアイヌ名の家が
20
戸も書かれた地図が展示されていた。小泊、夏泊、など結構、よくこういうことはあったらしい。地名にも犾村というようにアイヌを示唆する地名があるようだ。
民俗コーナーではマタギの村田銃が展示されていた。マタギの山言葉はアイヌ語が混ざる。そんなことも紹介されていた。
かねて見たかったおしらさま、庚申、ボノ神さんなど民間信仰の実際を展示するコーナーがあり感激した。柳田國男の遠野物語にはおしらさまの由来なども出てくるが、東北の各地にこのような進行が根付いていることに驚きを感じるとともに、人々の日々の生活の息遣いを感じた。
文明を享楽的に受け入れている我々だが、本質的に不安なく満ち足りているのか。こういった信仰や伝統を失って不安がっていないか、考えさせられた。
いろいろ考えさせられて郷土館を出た。いけない、アスパムで津軽三味線の実演が始まる!私は走った。
アスパムは青森の
A
の形をした物産館兼イベントホール兼レストランである。始まる
10
分ほど前に到着、席に着いた。
数十人の観光客を前に三味線が始まる。明るい祭りの唄も人々の情念を表現した唄もある。弦と撥が合わさり、胴を叩く音が腹に伝わる。そして感じる。ああ、これは青森に生きる人々の誇りと生きているということの宣言なのだと。中央より「みちのく」と揶揄されながら、ひっそりと、しかし力強く生きてきたその証の音なのだと思った。
青森に人々は生きていた。それも中央よりはるかにたくましく、はるかに人間らしく。このような「地域」が日本中にある。そのことに改めて感動した。
さあ、これで長らくの旅はおしまい。皆さん、お付き合いありがとうございました。
[2回]
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2010
12,06
15:41
青森紀行7
CATEGORY[未選択]
さて行った限りは戻らねばならない。これがたいへんだった。すでに日が傾きかける時刻になりつつある。
自転車を漕ぐ途中でブックオフを見つけた。あることが気になって入る。文庫本の太宰治を探す。あった、やはり…「津軽」が一番多かった。さすが青森。せっかくなので「ヴィヨンの妻」を買う。
200
円。
次の行き先を迷う。実は郷土館にも行きたいし、棟方志功記念館にも行きたかった。明日はねぶたの里…と思っていたので迷う。いろいろ考えて次の日はのんびり郷土館に出かけることとし、棟方志功記念館へ向かった。
遠かったが
4
時前には着いた。校倉造りの展示館は思っていたより小さい。観光客はまばらだった。
中身はすばらしい。うす暗い記念館の中に作品が照らされ、それが晩秋のイメージと重なり幽玄の美しさがある。県立美術館よりはるかに訴える力のある作品が並ぶ。僕の好きな「宇宙頌」「釈迦十大弟子」など。インパクト大アリ。すごい、来てよかった。「女人観世音」「天網の柵」なども素晴らしい。入館者も少なくゆったりと見られるのは魅力的である。
入館してすぐのところに棟方志功のビデオがエンドレスで流されているコーナーがある。ビデオは祭り囃子を流す。一瞬、展示室に誰もいない時があった。誰もいない展示室で遠くに津軽三味線を聴きながら、ただ作品を見る。棟方志功の作品は私に問いかけてくる。お前はどのように生きていくのか、生きたいのか。お前にとって祈りとは何なのか。そして空間が揺らぐ…
人の声がして我に帰る。得難い時間だった。やはり棟方志功の作品は好きだ。純粋に作品が造られている気がする。誰にでも気軽に語りかけてくる。
ここで図録を買った。めちゃ重かったが満足だ。
青森駅へ。本当は県立郷土館にも足をのばしたかったが、もう遅い。今日は諦めよう。それより本日の泊まり、浅虫温泉へ早く辿り着き、酒でも飲もう。私はワクワクして奥入瀬ビールという地ビールと缶の地酒を買った。
浅虫温泉は阿房列車にも太宰治の津軽にも登場するが、あまり良い紹介のされ方はしていない。「津軽」に至っては
自分の故郷の温泉であるから、思い切って悪口を言うのであるが、田舎のくせに、どこか、すれているような、妙な不安が感ぜられてならない。
他、ひどい書かれようである。というわけで若干不安だったのだが、鄙びた温泉街、というのも男の一人旅っぽい感じがして、かえって泊まってみる興が起こったのである。
宿は小さいところを選んだ。あまり大きな旅館だとそれだけで幾分、興ざめである。
1
日
4
組しか泊まれないという家族経営の、いわば民宿のような所。古い民家風の建物で落ち着きがあった。川のたもとにあって、中ではせせらぎが聞こえた。
その日の宿泊客は私だけ。宿の人は他の宿の温泉や津軽三味線ショーを勧めてくれたが、なにせ日中の自転車こぎでヘトヘトだったので遠慮した。
風呂は小さな檜風呂。匂いがいい。独り占めなのもいい。小さいが満足。のぼせるまで入った。
そして食事。すごい。青森が出てきた。思いだせるものでは、刺身、ナマコ、味噌焼き、ホタテ、その他その他。お銚子が進んだ。先ほど買った奥入瀬ビールも飲む。私は味の評価が出来ないのだが、何を食っても、何を飲んでもなかなか旨かった。
しばらく部屋で本を読んだりしていたが、退屈してきたので、バーで飲む。バーといっても1階の食堂の脇にある休憩所だが、雰囲気はなかなかよい。ウイスキーを飲んだ。さきほど買った「ヴィヨンの妻」を読んだ。
酔っ払ったところで就寝。疲れていたので、すぐに眠ってしまった。
翌朝は7時に起床。前日の二日酔いもなく清々しい朝。朝食に案内された部屋は古木を生かした梁からステンドグラスがかかる和洋折衷だった。朝ごはんは適度な分量で地元の食材を使った和食。少し塩分が多めで酒の毒抜きには丁度よかった。
残念ながら本数の少ない青森行きのローカル線に乗ろうと思うと、もう一度温泉に入る余裕はなかった。しかし宿の人の
「いってらっしゃい。」
に送られて元気に出発。浅虫もいいものだ、と思った。太宰や百閒先生に教えてやりたい。(次回たぶん最終回)
[3回]
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2010
12,03
13:04
青森紀行6
CATEGORY[未選択]
さて三内丸山へ。何度も書くが、自転車なので遠いと嫌だなあ、と思っていたのだが隣だった。まずはほっとする。
入り口は近代的で一見、遺跡とは思えない造り。しかしゲートを越えると広大な縄文遺跡が広がっていた。
読者に注意。この遺跡、個人で探索しようとしてもよく理解できない。頻繁にボランティアガイドがツアーを組んでいるので、面倒でもそれにくっついて行った方がよい。確か1時間に1回くらいはガイドしているのではないか。無料である。
遺跡にはまるでチセのような堅穴住居や祭祀か集会に使ったと考えられる大型住居が再現されている。住居は木に穴をあけ組み合わせて造る複雑なものだったらしい。櫓はうちころび工法で造られ、数度の傾きが特徴だという。
三内丸山からはいわゆる土偶も多数出土している。板状土偶というもので、平たい十字架に細工したような土偶。出土する土偶は皆女性だそうだ。女性は巫女的な役割が大きかったのかもしれない。
土器は華やかだ。縄文中期の頃は非常に華やか。いわゆる縄文だけでなく様々な模様があって楽しい。どことなくアイヌ文様に似ていた。漆塗りの土器もあって驚きだった。そんなときから漆を工芸に利用していたなんて。この地に思ったより大きな文明が花咲いていたようだ。
三内丸山ではいくつかの道が再現されていたが、これも復元の道らしい。この道はいずれもその周囲に埋葬した跡があるという。埋葬は屈葬も多いが、進展葬もあるらしい。それが数百メートル続く。環状列石もあって、これらも祭礼や葬儀と関係していると推測されている。
道具類はまことに興味深い。縄文ポシェットなる綾織りもあった。この技術、今に至るまで脈々と受け継がれていると思うと、古代の技術の高さに驚きを隠せなかった。
根本的な話だが、ガイドの話では三内丸山遺跡の最盛期、青森はもっと暖かかったらしい。雪も少なかった(あるいはなかった)。したがってこのような大規模集落が誕生したという背景があるそうな。なるほど。
失敗した土器も展示されていた。これを作った人はまさか
2000
年後に失敗作が展示されると思わなかっただろう。残念!
興味を持ってガイドの話を聞くのは人生の晩年の方々ばかりで、修学旅行生と思しき一行は、所在無げにガイドに付いてぞろぞろと歩いていた。ガイドは
「いいですか、これだけは覚えて帰ってください。三内丸山は広い、大きい…」
選挙か。いかにも日本らしい光景。面白く感じた。
三内丸山遺跡は展示も工夫され面白かった。博物館は写真撮影が許可されており、自由な雰囲気もあった。しかし地元民のお祭りをしていたが、静かな遺跡を楽しみたいのに、地元中学生が歌って踊って、しかも誰も見ていなかったのはいただけない。イベントは中止してもらいたい。
三内丸山はいかにも広く、そして縄文の文化を伝える絶好の場である。おしてその文化は北方のアイヌ文化に近く、奥州のいわゆる「まつろわぬ人々」の祖先となったものである。赤坂憲雄が言うように北からの視点で日本の歴史を捉えなおすことは重要だ。彼は「東北学」の中で芭蕉的なものを排除せよ、と唱える。中央から一段高い視点から周辺を見下すのはもうやめた方がよい。三内丸山からいま我々が置かれた文化的観念を根底から書きかえる作業が始まるかもしれない。そんな可能性を彼の地で感じた。 (飽きたかもしれないが、続く)
[3回]
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2010
12,02
13:07
青森紀行5
CATEGORY[未選択]
ここから三内丸山遺跡へ向かう。途中でこの計画が勇蛮であったことに気づく。坂道だしめちゃくちゃたいへんだったのだ。明らかにそれと分かる観光タクシーがひいひい言いながら橋を越え坂を上る私の自転車を追い越していく。私も当初イメージしていた「のんびりと田園を行く自転車」との相違を噛みしめながらも、このゆったり感がいいのさ、と負け惜しみをしつつ必死にペダルを漕いだ。
三内丸山の手前が青森県立美術館だった。白亜の瀟洒な建物。腹が減ったこともあって、まずはこちらにお邪魔することにした。
まずはミュージアムショップを覗く。私は博物館のミュージアムショップが大好きだ。こんなの誰が買うんだ?というようなへんな物品を見ているだけで楽しい。しかも土地のものや展示物と関係なく脈略もなく置かれているお土産を見ると思わず笑ってしまう。へんな美術館の楽しみ方だが。
ここは特記すべき所見なし。割かし普通のお土産が整然と並べらていた。まあ、ショップの意気込みは感じた。比較的新しい美術館なのでオシャレにまとめている印象。それはそれでいいけれど。笑いが欲しかった。
続いてランチを摂りに美術館に併設されたカフェ「四匹の猫」へ。少し涼しくて汗だくになったからだが冷めていく。木目が鮮やかで清涼感を感じる。展示にあった茄子と初雪茸のトマトソース、そして青森と言えば…シードルを注文。男の一人旅は昼間の酒にあり。自転車だし。自由なものだ。
太宰治の「津軽」には厚い人情を持った津軽の人々の姿が描かれているが、私が一番印象に残ったのは戦前の「リンゴ酒」であった。いろいろ調べてみるといわゆるシードルではなくて、発酵させる産物が減った時期に苦肉の策でリンゴを使用したというものらしい。しかし、その「リンゴ酒」という響きが私はたいへん気にいって、なんとか飲んでみることはできないかと思っていた。しかしまあ、今ならシードルか。ここで飲む。
要するにシャンパンみたいなもんだが、たいへんおいしかった。パスタはいまいちだった。少し値段が高い。
県立美術館へ。新鮮。白亜の巨大な建造物で不思議な展示物が多い。コンクリート壁が倒れていたり、浮いていたり。特別展のため人出も多く盛況だった。
特別展はスタジオジブリ・レイアウト展だった。映画やテレビアニメごとに原画やレイアウトが展示されている。いつか見た場面ばかりで、そのときの興奮が思い出された。たいへん精密に作られているし、またスピード感もスケールも大きくてジブリの偉大さが分かる展示だった。
宮崎監督はマイノリティーへの視点が優しいと感じる。私がジブリの最高傑作と思うのはやはり「もののけ姫」だが、その中のシシ神様などまつろわぬ民の魂のような存在だ。神殺し(侵略や新しい文化への帰依)の結果得られる文明に対する批判はナウシカ以来一貫しているように思う。したがって東北、こと三内丸山の隣でジブリ展を開くのは因縁を感じさせられた。
ところでこの美術館、常設展が素晴らしい。あまり統一感がないのが残念だけれど、各展示がそれぞれの主張をしている。
青森と言えば棟方志功だと思うが、この美術館にも棟方志功展示室があった。心で花を狩る「華狩領」(のちに志功の本を読むと、アイヌの花矢がモデルらしい)や季節を的確に表現した「大和し美し」などが印象に残ったが、全体としては丁寧さが目立って棟方志功らしい力強さに欠けたのは残念だった。その他は寺山修二のナンセンス、成田亨の怪獣、ウルトラマンなど郷土作家の展示や一番でっかい展示室にシャガールの「アレコ」などがあった。「アレコ」はファンタスティックなその絵に心打たれていたら案内のおばさんが
「
10
億円ですよ。」
と言って興ざめだった。まあ、そうでしょうねえ。
ある展示室でメゾチント作家、長谷川潔の「時、静物画」に出会った。これは京都国立近代美術館で見て以来、好きな作品で旧友にばったりと出くわしたような懐かしさと嬉しさを感じた。青森でもとても素敵な絵だった。(まだ続く)
[3回]
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